[出会いは突然]



草生い茂る高山地帯を、黒い服を纏った長身の少年はゆっくりとしたペースで登っていた。
「ここ…さっきも通ったよなぁ(汗」

独りぼやいてため息をつく。
彼は末期的な方向音痴だった。
もはや見慣れた景色にうんざりしつつも、少年は歩みを止めない。
中央管理区…本来ならばその場所を調べる為にやって来たのに、そこは重い扉に閉ざされていて、
この高山を含める3箇所にあるセキュリティーを解除しなければ開く事が出来ないのだと、
通信端末CALを通じてナビゲーターを担当してくれているエリ・パーソン嬢は言っていた。

そんなこんなで彼はもう3時間も歩き通しなのである。
ここまで来て引き返すのも馬鹿馬鹿しい。

「こっちかな。」

がさがさと草を踏み分け、少年は電子マップを頼りに進んで行った。

「あ、すごい」

少年は思わず声をあげた。
目の前には人工的に作られたらしい高台。
細い通路の真ん中には円形のひらけた場所がある。
見晴らし台のようにも見えるが、柵が無く、眼下には白い飛沫を上げる海。
視線を上げれば自然のみに許された空と海の青一色。
弁当持ってピクニックしたくなるほど景色は最高である。

しばし景色に見とれて立ち止まってしまう…短く切り揃えた髪を海風になびかせ、
潮の香りを胸いっぱいに吸い込み、しばしの休息をとろうと、少年は高台の縁に腰掛けた。
足を投げ出してぶらぶらと揺らす。

―ガサっ…―

背後で何かが動いた。弾かれたように顔を上げ、素早く立ち上がり武器を構える。
視界にはただ広がる自然…危害を加えようとするものは何も居ないように思える。
だが、少年は明らかに殺意に満ちた何かがいる事に気付いていた。

張り詰めた空気が辺りを支配する。

この美しい景色のどこかに、押し殺せない程の敵意を自分に向けている相手がいるのだ…それも、とても近くに。

少年は姿の見えぬ敵の気配へ向けてロッド系の武器、デモニックフォークを突き出した。
普通の人が見たらなにも無い場所に、武器の先端を突き刺す。

―ガツンっ!―

金属のぶつかる鈍い音と、確かな手応え…
少年は後ろへ素早くさがる。
景色が揺らぎ、少年が武器を突き出した場に現れたのは、自然に囲まれたこの場所に居るには
あまりに似付かわしくない機械型エネミーだった。

シノワ系と呼ばれているものだろう…
このタイプのエネミーには擬態能力があるものが数多く存在する。
このシノワは、少年が初めて遭遇するタイプだった。
力も素早さもあり、かなり強力なシノワ系。うかつな攻撃は逆に危険なのだ…。

どの攻撃が一番効果的なのか、少年は迷った。
しかし、迷いは隙をうむ。
それを見逃してくれる程、敵は甘くはなかった。
地を蹴る音がしたかと思うと、シノワ系エネミーはもう少年の懐へ飛び込んでいて、
その大きな腕を振り上げていた。

――ズガン!――

細身な少年の身体はあっさりと吹っ飛ばされた。
叩きつけられた身体が地を滑る…


――ずる…――

『!?』

気が付くと、地面が無かった。
少年の身体は高台から投げ出されてしまったのだ。
重力に逆らえない身体はそのまま海へと真っ逆さまに落下する…

「うわぁああっ!」

―ドォォンっ!―

派手な水柱を立てて、少年は海にひきずりこまれた。少年がかぶっていた帽子は、
穏やかな波間に浮かんできたが少年の姿は無い。

…彼は末期的なカナヅチであった。

〔同時刻海岸エリア〕

「日乃菜ぁ…ま、待ってぇ〜待ってよぅ」

何とも情けない声を上げて、金髪碧目の美女は白い砂浜に膝をついた。
呼び止められたアンドロイドの少女、Hinona(ひのな)は振り返り、
ぜぃぜぃ言っている自分の主人に手を差し伸べた。

「大丈夫デスカ?イザベラ様…少シ休ミマショウカ…」

気遣わしげな声になんとか顔を上げ、Izavera(イザベラ)は青い顔で弱々しく微笑んだ。

「ごめん、そうしてもらえると助かる。ちょっと…もぅ…無理」

喘ぎながらもなんとかそう言ってイザベラはぐったりと座り込んだ。
「此処ハ日向デ体力ヲ消耗シテシマウデショウ…日陰ヲ探シテ参リマス。
スグ戻リマスカラ、待ッテイテ下サイネ」

そう言って日乃菜は主人の肩に手を置き、子供を安心させようとする母親のように優しく微笑んで、
また一人砂浜を歩きだした。

白い砂に日乃菜は足を少し沈ませながら歩く。
焼け付くような日差しの下、主人を休ませる事が出来る場所がないものかと、きょろきょろと辺りを見回す。
ふと、視線の先…波打ち際に、黒い物が転がっていた。
流木か海藻か…確かめようと近付いて、日乃菜は仰天した。
彼女のメモリ内に蓄積している記憶が確かなものならば、それは紛れもなく人間…。
彼女は慌てて駆け寄った。

「大丈夫デスカ!?ネェ、チョット!シッカリシテ下サァイ!」

抱き起こして揺さ振るが、その黒い人間は動かない。
揺さ振られるままに首が前後にガクガクと揺れ、まるで人形である。

「壊レテイルノ?ドウシヨウ…イ…イザベラ様ァア!」

叫んで日乃菜はその黒い人間を肩にひょいと担ぎ上げて主人の待つ場所へと走った。

「は…早く助けなきゃ!」
イザベラは焦りながら言った。このままでは間違いなくこの少年は死んでしまう。

「助ケル…ドノヨウニスレバ良イノデスカ?」

主人の焦る様を見て、日乃菜も慌てた。緊急事態であることが解ったのだろう…オロオロと落ち着かなくなる

「何をするって…えっと…溺れたのよね?水を吐かせたり、心臓マッサージに人工呼吸とか…」

早口でイザベラに言われて日乃菜は立ち上がった。

「…吐カセレバ良イノデスネ?」

―ドゴォっ!―

鈍い音がした。日乃菜の肘が少年の腹部にめりこんでいる。
立ち上がった態勢から横たわる少年の腹部に全体重をかけて肘跌をくらわせたのだ。
ちなみに彼女はアンドロイドなので、見た目よりもかなり重い。

「ひ、日乃菜…それはその…下手したら死んじゃうんじゃ…?」

もはやイザベラにはそれ以上何も言えなかった。

「がはぁっ!」

突然の声に、イザベラと日乃菜は驚いた。
日乃菜が肘跌をくらわせた体がびくんっ!と跳ねる。
…まさに今奇跡は起こった。少年の意識が戻ったのだ。
彼は飛び起きて苦しげに海水を吐き出す

「げほっごほっ!」

イザベラと日乃菜は顔を見合わせ、安堵の息を吐いた。
良かった。一歩間違えばトドメさしてた…

「君、大丈夫?」

イザベラは咳き込む少年の背をさすりながら聞いた。

「だ…大丈…げほっ!大丈夫…げほっ!」

たっぷり30分程、少年の咳は治まらなかった。
ようやく落ち着いて、少年は顔をあげ、二人を見つめた。

「僕…その…どうして?…貴女方は?」

海水で喉をやられているらしく、擦れた声で少年はやっとそれだけ言った。

「君が波打ち際に倒れていたのを日乃菜が見付けたの。とにかく無事でよかったわ」

言ってイザベラは砂浜に腰をおろした。日乃菜もそれにならってイザベラのとなりにちょこんと正座をする。
三人の目線の位置が合ったところでイザベラは自己紹介を始めた。

「私はIzavera(イザベラ)よ…見ての通りRAmarl」

背中の中程まであるプラチナブロンドの真直ぐな髪、黒地に青いラインの入った軍服。
気の強そうな美人である。

「私ハHinona(日乃菜)…HUcasealデス」

イザベラの隣にすわっている日乃菜も照れながら自己紹介を始めた。
可愛らしい女性的なラインのピンク色のボディ、舌足らずな機械ボイス。
アンドロイドにしてはとても表情が豊かなのに気付いて少年は驚いた。

「さ、次はこっちが聞く番よ」

イザベラは少年ににじり寄って言った。

「君は誰なのか、どうしてあんな所で倒れていたのか…教えてくれないかしら?」

二人の女性の真剣な眼差しに、少年は少し困惑した。何から話せば良いものか…
濡れて顔に貼りついている前髪を手で払って意を決して二人に微笑みかけた。まずはお礼を言わないと…

「助けてくれてありがとうございます。僕はSarita(サリタ)…職業は、お二人と同じで最近ハンターズに認可されたFomarです」

サリタと名乗った少年は、短く切った髪も、目の色も、身に纏っているローブのような服も全てが漆黒だった。
ただ、肌だけは雪のように白く、どことなく神秘的な外見である
サリタは少し考えてから、事のあらましを説明しはじめた。
「中央管理区の扉を開くセキュリティーを解除する為に高山を探索していたんですけれど、
道に迷ってしまってそこで初めて見る種類のシノワに遭遇してしまって…
交戦中に高台から落ちてしまった所までは覚えているんですけど…」

サリタはそこで言葉を切って、恥ずかしそうに少し視線を下に移した。

「高台って…あれの事?」

イザベラの指差す先にその高台はあった。
遠くから見るとずいぶん高さがあるのが解る…

「えぇ、あれです」

サリタは頷いた。
とたんにイザベラが青くなる。

「よく生きてたわね。怪我はないの?」

イザベラに言われてサリタは自分の身体を見まわした。特に目立った外傷はない。

「大丈夫みたいです。ただ、腹部が痛いだけで…」

それは日乃菜が強烈な肘跌を…いや、もう何も言うまい…

「サリタサン荷物トカハ大丈夫デスカ?」

慌てて日乃菜が話題を変えた。サリタは持っていたアイテムを確認する。

「武器は手に持っているし…アイテムは…うん、大丈夫。マグは…」

サリタは後ろを振り向いた。真っ黒なシャトがふわふわと肩の傍に浮いている

「ちゃんと居ま…へくしっ!」

言葉はくしゃみに遮られた。

「す…すみませ…っくしゅん!」

「ちょっと…大丈夫?濡れたから風邪ひいたんじゃない?」

イザベラはポケットからハンカチを取り出してサリタの濡れた髪をふいてやった。

「どのみちその状態で探索は続けられないでしょう。私も疲れたし、丁度良いわ。よかったら家にいらっしゃい。
服、洗濯してあげる。お風呂にも入ったほうがよさそうね」

イザベラは立ち上がってリューカーを唱えた。光の柱が出現し、パイオニア2への転送が可能になる。

「立テマスカ?」

日乃菜に手を借りて、サリタはゆっくり立ち上がる。

「迷惑かけてすみません…」

申し訳なさそうに言って頭を下げたサリタの肩に日乃菜はそっと手を置いた。

「困ッテイル時ハオ互イ様デスヨ。ドウゾ気ニシナイデ下サイ。サァ、行キマショウ」

三人はリューカーの光に吸い込まれていった。

それは巨大な移民船。
惑星ラグオルに降りられない今、この船が自分達の帰るべき場所…
イザベラ、日乃菜、サリタの三人はリューカーからゆっくりと出てきた。

「こっちよ。ついてきて」

言われた通り、日乃菜と二人でイザベラの後ろ姿を追い掛ける。
そんなに遠くない場所に、彼女達の家はあった。
二人で住んでいるのかは解らないが、かなり大きな三階建ての建物だった。
ステンドグラスがあしらわれた大きな両開きのドアを開けると、中には沢山の椅子とテーブルがある。

「此処は…お店なのですか?」

サリタはイザベラの背中に向かって問い掛けた。

「そうなる予定」

イザベラは振り向いてにやりと笑い、サリタを中へと促した。

「サリタサン、先ズハオ風呂デスネ。コチラヘ…」

日乃菜はサリタの袖をひっぱってバスルームへ連れていった。

「タオルハ此処ニ有リマス。服ハ脱イダラ置イトイテ下サイ。洗濯シマスカラ…ユックリ暖マッテ下サイネ」

そう言って日乃菜は脱衣所を出ていった。
サリタは濡れて重くなった服を脱ぎ、バスルームの戸を開けた。
シャワーのコックをひねると、冷えた身体に優しい温度の湯がサリタの全身を打つ。
良い香りのする石鹸やシャンプーで全身洗って綺麗にし、広い湯槽で湯に浸かる…生き返るような気分だ。

「とても優しい人達だな…」

ぽつりと呟いて、湯に肩まで浸かる。
サリタは自分がこんな状況にいる事を不思議に思っていた。
彼女達の優しさが嬉しくて恥ずかしくてくすぐったい。
…とても良い気持ち。
膝を抱えるようにして、全身を包み込むような暖かな湯の中でサリタは彼女達の優しさを有り難く思った。

指先がふやけるくらい全身しっかり暖まってから、サリタはバスルームを出た。
脱衣所にはいつのまにか、綺麗にアイロンをかけられたサリタの服が畳んで置いてあった。
大急ぎで洗濯をして、乾かしてくれたのだろう…
嬉しい気遣いに自然と顔も綻ぶ。
着慣れた服に袖を通して、サリタはイザベラと日乃菜が居るだろう一階ホールへと戻った。

「あら、あがったのね。こっちおいで」

ホールの隅にある木製の椅子に座ってお茶を飲んでいたイザベラは
サリタの姿を見付けると自分の前にある椅子に座るように勧め、ティーカップに紅茶を注ぐと、サリタに渡した。

「ありがとうございます。良い湯加減でした」

勧められた椅子に浅く座り、渡されたカップの中の琥珀色の液体に口を付けた。

「あつっ!」

…彼は末期的な猫舌だった。

「あらら大丈夫?気を付けなきゃ駄目じゃない」

言ってイザベラはサリタの手からカップを奪い取り自分の顔に近付けた。

「ふー…ふー…」

サリタの紅茶に息を吹きかけて冷ます。サリタは口をぽかんと開けたまま、その光景を見ていた。

「はい、ちゃんとふーふーしたからもう大丈夫よ♪」

「………(汗)」

「あ…(汗)」

にっこり笑ってカップを手渡そうとしたイザベラは、口を開けたまま自分を見つめているサリタを見て顔色を変えた。

「きゃーごめんなさい!そうよね、普通はそういうことって自分でやるわよね…
私、妹しかいなかったから、何だか弟ができたみたいで嬉しくなっちゃってつい…」

言葉の最後は尻すぼみだ。
開けたままだった口を閉じ、目の前で赤くなって俯いてしまったイザベラを見てサリタは思わず吹き出した。

「あはっ…あはははははっ!」

サリタの笑いは止まらない。その姿を見てイザベラはあっけにとられた

「そんなに可笑しいかなぁ…?」

首をかしげて眉をよせているイザベラに、何とか笑いを堪えつつ、サリタは話した。

「ご…ごめんなさい。そんなつもりじゃないんですけど、びっくりしてしまって…」

誰かにそんな風に言われたのは初めてだった。『弟みたい』だなんて…
自分はいつも一人だったから…
いつからこうだったのかなんて…もう覚えていない…
それ位長い時を、彼は一人で過ごしてきたのだ
思い出してサリタは俯いた。紅茶に自分の顔が映る。
今、この時間が楽しいのは、傍にいる彼女と、日乃菜がいるからこそ…こうして話をするのもあと少しの時間。

この時間が終われば、自分はまた一人になるのだ。

沢山助けてもらった。優しく笑いかけてもらった。
だけど自分はまだ何もしていない。
…何かがしたかった。この優しい人たちの為に。
また一人になる前に…

「紅茶ノオカワリ如何デスカ?」

奥から日乃菜がケトルを持って出てきた。
向こうにはキッチンがあるのか…

―ガタンっ―

サリタは突然立ち上がった。驚くイザベラと日乃菜へ交互に視線を移してサリタは言った。

「よろしければキッチンを貸していただけますか?」

何だか物凄いやる気を感じる

「え?えぇ、別に良いけど…どうしたの?急に…」

訝しげにイザベラが問う。
サリタは真剣な眼差しで真直ぐイザベラを見つめ、気持ちをぶつけるように問い掛けに答えた

「お二人にどうしてもお礼がしたいんです」

キッチンを使うというからには何か料理でも作るのだろう…何を作るか考えていると、
サリタはある問題に気付いてしまった。
…日乃菜がアンドロイドだということに。
料理はやっぱり駄目だろうか…

途方に暮れているサリタの表情で考えている事を察して日乃菜が慌てて言った。

「大丈夫デスヨ。私モ食ベル事ガ出来マスカラ」

日乃菜の言葉の意味をイザベラが付け足して説明してくれた。

「ハンターズのアンドロイドって、モノメイトとか回復系のものなら食べられるでしょ?
最近のアンドロイドはちゃんと味覚のある子なんかもいて、
人間と同じように食事を楽しむ事が出来るようになってきているの。この日乃菜もそうよ」

日乃菜の横に立ち、イザベラはその肩に両手を置いて楽しそうに笑っている。
サリタはほっと胸を撫で下ろした。
そうと決まれば、早速料理開始だ

「じゃあ、キッチンお借りします」

さりたは日乃菜が先程出てきた奥の部屋へ歩き出した。

「あ、待って。器具とかある場所教えるから…」

イザベラもサリタの後を追って奥へ入る。
家庭用キッチンというよりは、白い帽子のコックが何人か、見事な手つきで料理を作るのが
似合いそうな広い厨房といった感じの空間が目の前に広がる。

「すごいな…これだけ設備が揃っていれば何でも作れますね」

サリタは調理台に手を置いて嬉しそうに撫でた。

「でも、食材あまり無いわよ?今日買物に行ってないから…」

イザベラは冷蔵庫の中を確認してため息混じりに言った。

「いえ、食材はそんなに種類が無くてもいいんです。卵とバターと小麦粉さえあれば」

サリタの言葉に、イザベラは首を傾げた。

「…何を作るの?」

その言葉を待っていた。そう言いたそうな顔で、サリタはにこやかに言った。

「クッキーですよ」

「クッキー!?」

イザベラは仰天した。信じられないという感じでサリタを見る。

「クッキーってあれでしょ?甘い焼き菓子!この船に乗っているなら解ると思うけど、
砂糖は手に入らないのよ?もちろんうちにも無いわ。それでどうやって作るの?」

そう、パイオニア2では甘いものの制限が厳しいのだ。
もっともな疑問にサリタは微笑んでホールへ戻り、自分の荷物の中に手を入れ、
白い粉が入った大きな瓶を取り出した。
テーブルの上のカップを片付けていた日乃菜が興味深そうに覗き込む。

「日乃菜さんも、よかったらみてみませんか?」

瓶を抱えたまま、サリタは手招きして日乃菜をキッチンへと誘った。
中で待っていたイザベラはサリタの持っている瓶を見てそれが何なのかを言い当てた。

「それ、もしかして砂糖?」

サリタの持っている瓶の中で、白い粉がさらさら揺れた。

「えぇ、砂糖です」

サリタは瓶を調理台に置いた。きっちり密閉されていいたので、サリタが荷物ごと海に落ちたときも、
中が湿気らずに済んだのだ。

「オ砂糖ナンテ初メテ見マシタ…」

日乃菜は瓶に顔を近付けて中の白い粉を見つめた。

「ケーキ職人のナウラ3姉妹から分けて頂いたんです。彼女達は何故か砂糖の精製方を知っていて、
その作り方は教えてもらえなかったんですけどいつでも分けてくれるって。
これで頑張って美味しいクッキー作りますね」

卵、小麦粉、バター、サリタの持ってきた砂糖…これで材料は揃った。

サリタは腕まくりをし、鮮やかな手並みで小麦粉、砂糖をふるい、バター、卵とあわせて手早くさっくりと混ぜる。
バターが多めなのと、砂糖が粉糖なせいなのか柔らかめの生地になる。
それを絞り袋で等間隔に細長く絞り、余熱したオーブンに入れ、扉を閉めた。

「後は焼けるのを待つだけです」

焼けるまでの時間を雑談しながら三人は待った。甘い良い香りが漂う…

―ピー…―

オーブンレンジが電子音を響かせて完成を告げた。
サリタはミトンを付けて扉を開け、天板を取り出す…
焼けたクッキーを網に乗せてあら熱をとり、手で持てる位に冷めてから綺麗な模様の皿に移した。

「すごーい♪美味しそう」

イザベラは、この船に乗ってから久しく食べていない甘いお菓子を見て歓声をあげた。
日乃菜は甘いもの初体験である。

「ラングドシャクッキーです。さ、どうぞ食べてみて下さい」

〈猫の舌〉という意味のこのクッキーは、薄めで端がこんがり焼けていた。
女性二人はまだ少し暖かいクッキーを指先でつまんでゆっくりと口に運んだ。

―さくっ…―

「お、おいしー!サックサクだよ〜♪」

「本当、スゴク美味シイデス!」

二人のはしゃぐ姿を見て、サリタは照れながらも嬉しそうに笑った。

―ボーン…―

ホールにあった大きな振り子時計が9回鳴った。クッキー作りで時間を忘れていたが、もう夜の9時なのだ。

「あの…僕そろそろ帰ります。色々ありがとうございました」

サリタはぺこりと頭を下げた。
とても良い一日だった…。
短い時間だったが、巡り会えた事を自分は忘れはしないだろう…
此処を出ればまた一人だ。
これ以上居たら別れるのが辛くなる。
きちんとお礼も出来たし、喜んでもらえた。…これで良いんだ…

「あ、ねぇ!サリタ。君、何処に住んでいるの?よかったら住所教えてよ」

「え……?」

帰ろうと背を向けたサリタにイザベラは聞いたが、サリタは押し黙ってしまった。
帰る家なんてサリタには無い…答える事が出来ないのだ。
俯くサリタを見て、イザベラは否定してほしい質問をぶつけた。

「もしかして帰る家が…ないの?」

その答えは否定されなかった…

「帰る所が無いなら何処行くつもり?」

きつい問い掛けに答える事が出来ない。サリタには行く所すら解らないからだ…。
サリタは顔を上げて無理に笑ってみせる。
心配させないようにかもしれないが胸が痛くなるような辛い笑みだった…

「あのさ…」

言葉を選びながらイザベラはゆっくりと話しだした。

「…見ての通り、此処って飲食店にするつもりだったの。
でも人が足りなくて…その、良かったらサリタ此処で住み込みでコックやってくれない?」

彼女には自分の欲しい物がお見通しなのだろうか…
一人じゃない自分…それがサリタの一番欲しかったもの。

「家族みたいに…お店やろうよ」

サリタは不覚にも泣きそうになった。こんなにも嬉しかった事があっただろうか…
差し伸べられた手をサリタはぎゅっと握った。
顔を上げると涙が零れそうだったから俯きながら言った。

「ありがとう…」

突然の出会いの喜びはお菓子のように甘く胸に溶けた…

《終わり》



*ノーチェのホスト「サリタ」こと「氷月 炯魔(ひつき けいま)」が発行するメルマガで
 配信された小説です。
 現在も「Lime Light Memory」を発行中。
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