[Lime Light Memory III]



        「此処が研究所なの?こんな所にあるなんて…」

        三人乗りの小さなボートの上でイザベラは巨大な船上研究所を見上げた。
        オールで水を掻きながら雪風は頷き、サーチライトの届かない場所にボートを寄せて縄で繋いだ。

        「サリタ君は此処にいるはずです。行きましょう」

        雪風の先導で三人は進んだ。積み荷の陰から顔を覗かせて先を見ると、船内へ通じる扉が見えた。

        「ドウヤッテ捜セバ良イノデショウ?」

        ひそひそと雪風とイザベラに耳打ちして、日乃菜は中へ通じる扉を見つめた。

        「やみくもに捜しまわるのは逆に危ないかもしれませんね…こちらは三人しかいませんし…」

        とくに策があるわけでも人数が多いわけでもない。
        それどころか研究所の内部すら把握できていない状態での救出は無謀とも言える。
        失敗は許されないが、状況はかなり厳しい…。雪風が考え込んでいると、イザベラが急に小声で叫んだ。

        「ねぇ!あれ見て」

        イザベラは扉を指差していた。
        日乃菜と雪風が視線を移すと、中から大人が入れる程の大きな箱を台車に乗せてニューマンの女が出てきていた。
        女は辺りをきょろきょろと見回しながらゆっくりと台車を押している。

        「雪風さん、日乃菜。ちょっと耳貸して。考えがあるの」

        言われた通りに耳を近付けるとイザベラは早口に内容を話しだした。
        全てを聞き終わった二人の顔が緊張で強ばる。

        「これしか方法はないと思う…やりましょう」

        少し不安そうな二人にイザベラは強い口調で言った。

        「解りました…ですが十分気をつけて下さいね?」

        「イザベラ様、無理ハナサラナイデ下サイネ?」

        イザベラは二人に微笑みかけて前を見据えた。視線の先には台車を押すニューマンの女。
        積み荷に隠れながらイザベラはじりじりと前に出てタイミングを見計らう。緊張で汗が額に浮く。

        「今だ!」

        イザベラは積み荷の陰から飛び出て女へ向かって全力疾走した。

        それは一瞬の出来事だった。
        イザベラは後から女の首を左腕で締め右手に持ったサプレストガンをそのこめかみに当てた。
        女が驚いて声を上げる前にイザベラは少し強く首を締め上げる。

        「静かに!抵抗しなければこれ以上手荒な真似はしないわ」

        イザベラが女を捕えるのを見て日乃菜と雪風も女の前に姿を現わした。
        イザベラは少し腕の力を抜いてやり、首が楽になるようにしてやった。
        相変わらずサプレストガンは突き付けたままだが少なくともこれで会話はできるだろう…。

        「まずは質問に答えて頂戴。先刻フォースの男の子が此処に連れてこら…」

        「ま、待って下さい!」

        イザベラの言葉を遮るようにして誰かが声を上げた。それはイザベラが捕まえている女ではなく男の声だ。
        声は女が運んでいた箱の中から聞こえる。
        箱の蓋が開いて中から現われたのはフォーマーだった。

        「彼女は人間の味方です。手を離して」

        男はイザベラに懇願した。

        男の言葉にイザベラは困惑した。思わず女に押し当てていたサプレストガンを下ろしてしまう。
        日乃菜と雪風も驚きを隠せない。

        「彼女は捕まったフォース達を死んだと偽って逃がしてくれているんだ」

        三人は男が隠れていた箱を見た。それは黒い塗装が施された木製の柩だった。

        「…本当なの?」

        イザベラの問い掛けに捕まえている女と男は頷いた。

        「…イザベラ様、彼ガ嘘ヲツイテイル様ニハ見エナイノデスガ」

        「私も同感です。手を離しても大丈夫だと思いますよ」

        雪風に促されてイザベラはゆっくりと女を解放した。女は抵抗も反撃もしてこない。
        男が女に駆け寄り、気遣わし気に声をかけた。

        「大丈夫ですか?ジュリアンさん」

        「あぁ、有難う。大丈夫だ…お前は人が来る前に早く行け。この先にボートがとめてある。
        島に付いたらしばらく身を潜めるんだ。いいな?」

        男は頷き、礼を言って立ち去った。

        「あの…ジュリアンさん…でしたっけ?貴女は一体何者なの?」

        走り去る男の背を見つめているジュリアンにイザベラは控えめに声をかけた。
        ジュリアンは雪風をちらりと見てから事のあらましを説明しはじめる。

        「そちらの彼は雪風という名だろう?逃亡者として記録されていたよ。…となると君達が捜しているのはサリタか。
        彼とは先刻会ったよ…『こんな事は終わりにしたい』と…戦うと言っていた。
        私も協力しているのだが、弟が捕えられているから下手に動けない。
        せめて脱出ルートの確保と戦う力の無い者を逃がす位はやろうと思ってな」

        ジュリアンの話しを聞いて漸く三人は納得し、それまで抱いていた警戒心を解いた。

        「じゃあサリタは無事なのね?案内してくれるかしら?」

        ジュリアンが頷いた時だった。

        ―ゴゴゴゴ…―

        「何だっ!?」

        とても船上とは思えない揺れに襲われ、四人は床に叩きつけられた。

        それぞれが積み荷や壁に掴まりながら何とか揺れに耐える。

        「この揺れは…っどうやら船先の方からっ…みたいですねっ」

        舌を噛みそうになりながら雪風が船先の方を指差した。
        目線の先に硝子張りの四角い部屋のような物が見えている。

        「ジュリアンさんっ…あそこまで…っ行ける?」

        「あぁっ、ついてきてくれ…っ」

        ジュリアンの案内で壁伝いに船上を進む。
        途中ニューマン達に見つかったりしたが、揺れでまともに動けないうちに殴って気絶させ、拘束した。
        硝子の壁の前まで来た四人は部屋の中の光景に驚いた。頭から血を流しながらサリタが子供を抱えている。
        そのサリタの周りを窓も無い部屋だというのにつむじ風が取り巻いていた。

        「あれ…サリタなの?」

        イザベラは思わず呟いた。
        今のサリタはいつもの穏やかな少年ではなかった…黒い髪を風に踊らせ、人形のように無表情な闇色の瞳は
        まがまがしい輝きを放っていた。



        ※※※※※※

        サリタは五月雨を床にそっと寝かせて立ち上がった。

        「…来い」

        小さく呟くと、五月雨が握っていた杖がその手を離れ、サリタの目の前、腰の高さに浮き上がった。
        杖に手を掛けて飛び乗るように座ると、杖は一気にサリタを乗せたままリフト上のナズとリアンの元まで飛ぶ。
        危険を感じてリアンが携帯しているハンドガンをサリタに向けた。

        ―ドンッ!―

        弾は明らかにサリタに向かっていたが、それはまるでサリタを避けるように逸れて硝子の壁に当たり小さな傷をつけた。

        「…もう終わりですか?」

        冷たい視線でリアンを睨みつけてサリタは言い捨てた。
        リアンは再度トリガーに指を掛けて構える。

        「この…化物っ!」

        リアンは何度も引き金を引いた。銃声が轟き、耳がおかしくなってもサリタを撃ち続ける。
        しかし、それがサリタに当たる事は無かった。

        「…五月蝉い」

        サリタはリアンに向けて真っすぐ右手を伸ばした。唇が小さく動き、呪文を紡ぐ…

        ―ゴゥ…―

        サリタの手から放たれた黒炎の塊がリアンを取り囲んだ。リアンは避け切れず炎に周囲を囲まれてしまった。

        「何なのこれ…!」

        「リアン!くそっ!計算外だが仕方ない…死ね!サリタ!」

        ナズは銃をサリタに向け狙いを定めた。サリタはナズに視線を向け、また早口で呪文を紡ぐ。

        「うわぁぁあっ!痛ぇぇぇぇ!!」

        サリタを撃つ事無く、ナズは悲鳴を上げながら床を転がった。
        手から銃が離れ、ナズが押さえている右手は不自然な方向に曲がっていた。

        「手が使えなければ銃は撃てませんよね?いかがですか?
        これが貴方が求めていた力ですよ…欲しければいくらでもくれてやりますよ…
        どれ程恐ろしい物なのかその身をもって思い知るがいい」

        杖に乗ったままサリタは口元だけで冷たく笑った。



        ※※※※※※

        「サリタっ!サリタぁ…っ!」

        部屋の外側からイザベラは硝子に向かって体当たりをした。
        弾き飛ばされて転んでも、何度も何度も硝子に身体をぶつけ続ける。

        「あんな事…やめさせなきゃ…あんなのサリタじゃない…っ!」

        硝子越しに起こった出来事…それはとても恐ろしいものだった。
        見たこともない黒い炎…全ての絶望を集めたようなサリタの暗く冷たい瞳…。

        「嫌…嫌よ…あんなサリタ…見たくない」

        イザベラは硝子に体当たりしながらぼろぼろと泣きだした。
        思い出すのは穏やかな笑顔…生意気言ったり、照れ笑いしたり…普通のどこにでもいる少年。
        イザベラはもうこれ以上今のサリタを見ていたくなかった。一刻も早くこの硝子を壊し、サリタを連れ出したい…。

        「早く…早くこれ、壊さなきゃ」

        イザベラはよろよろと立ち上がりまた硝子に向かって突進した。

        「やめろ!この硝子は特殊なんだ。体当たりで壊せるような代物じゃない!」

        ジュリアンはイザベラの肩を強く引き、なおも身体をぶつけようとするイザベラを止めた。
        イザベラはもがき、半狂乱に叫ぶ。

        「離してぇ!離してよぉ!」

        暴れるイザベラ、それを必死で押さえるジュリアンの肩に雪風は手を置いた。
        視線は硝子に向けたままでジュリアンと日乃菜に声を掛ける。

        「…ジュリアンさん。日乃菜さん。私が合図したらこの硝子を思いっきり武器で叩いて下さい…」

        雪風は硝子に向かって斜めに立ち、右手を伸ばして構えた。

        ―ドンッ!―

        硝子に向かって放たれたのはフォイエだった。
        硝子の壁はびくともしないが、雪風はかまわず次のテクニックを放つ。

        ―キィィィンッ!―

        今度はバータ。雪風は立て続けにフォイエとバータを交互に硝子へ放つ。

        「雪風さん?一体何を…」

        雪風の謎の行動にイザベラは唖然とした。

        「基本的に硝子は急激な温度変化に弱いんです。
        寒い部屋に置いたカップに熱い飲み物を注ぐとヒビが入ったり割れてしまう事があるでしょう?
        これは特殊硝子だから巧くいくかはわかりませんけど、試してみる価値はあるかと…」

        説明している間も雪風は硝子にテクニックを撃ち続けていた。
        もう何回撃ったか自分にも解らなくなる頃、雪風は声を張り上げた。

        「今です!」

        雪風の両脇に居た日乃菜とジュリアンが大剣を振り上げ硝子を切り付けた。

        ―ガシャァア…!―

        派手な音を立てて硝子は砕け、破片が床へバラバラと飛び散った。
        雪風は荒く息を付き、額に浮いた汗を手の甲で拭う。

        「巧くいったみたいですね…」

        四人は硝子の破片を踏みながら室内へと侵入した。
        部屋の中央あたりに倒れている子供を見てジュリアンが駆け寄りながら叫んだ。

        「五月雨っ!」

        そこにはジュリアンより深い緑色の髪の少年が横たわっていた。

        横たわる少年の顔は白く、肌は氷のように冷たかった。

        「五月雨っ!嫌だ!目を開けてくれ…五月雨ぇ…!」

        ジュリアンは五月雨を抱き起こし、その身体を強く揺すってレスタをかけた。
        …しかし、五月雨は目を開けなかった。ジュリアンの腕の中でぐったりとしたまま動かない。

        「ジュリアンさん、ちょっと失礼します」

        雪風はジュリアンの前に屈んで眠っているような五月雨の額に手を当てた。
        暖かな光が雪風の手から発生し、それは五月雨を包み込む。
        ジュリアンの腕の中で五月雨はゆっくりとその瞳を開いた。

        「五月雨!良かった。助けに来るのが遅れてすまない…もう大丈夫だ」

        ジュリアンは五月雨の身体を抱き締めなら雪風を見つめた。

        「ありがとう雪風…今のは一体…?」

        「リバーサーです…完全に死亡した者には使えないテクニックなので間に合ってよかった…
        少し力を使いすぎたようです…が」

        雪風は床にへたり込んてしまった。

        「お、おい、大丈夫か?どうした!しっかりしろ!」

        ジュリアンは慌てて雪風に駆け寄った。雪風の顔色はかなり悪く、苦しげな呼吸を繰り返している。

        「私は大丈夫です。それよりもサリタ君を助けなければ…イザベラさんと日乃菜さんだけでは…」

        雪風は見つめる先をイザベラと日乃菜がリフトへ向かって走っていた。
        雪風はよろよろと立ち上がり身体を引きずるようにして二人の元へ行こうとする。
        慌ててジュリアンは雪風の前に立ってその両肩を強く掴んで一喝した。

        「その身体じゃ無理だ!お前達はなんでそう無茶ばかりするんだ。…私が行く。五月雨、その人を見ていてくれ」

        「うん、お姉ちゃん気をつけてね。あの黒い髪のお兄ちゃん助けてあげて!」

        リフトへ向かうジュリアンの背に五月雨は大きな声で叫んだ。

        つむじ風で揺れるリフトに手をかけてイザベラと日乃菜は不安定な足場をのぼっていた。
        途中何度も足を滑らせそうになりながらも二人は一歩一歩、サリタの元へ進む。
        後から来たジュリアンも急いでリフトにのぼり始め、二人に追い付いた。

        「この高さから落ちたら…死ぬな」

        ジュリアンは恐ろしい考えを振り払うように首を振った。とにかく今は早くサリタを救出しなければ…。

        「く…ここを上がれば…」

        イザベラは腕の力でリフトの上まで上がった。そこにはサリタとニューマンが二人。
        一人は黒い炎に周囲をまかれ、もう一人は顔を歪めて踞っている。

        「サリタ…」

        サリタは冷たい嫌悪の視線を踞るニューマンに向けていた。
        腕をゆっくりとニューマンを狙うように上げ、唇がまるで歌うように異国の言葉で呪文を紡いでいた。

        「サリタ…っだめぇ!もうやめてぇっ!」

        イザベラはリフトの上に立ち上がり、悲鳴のように叫んだ。
        サリタが弾かれたように顔を上げ、その見知った顔を凝視する。

        「イザ…ベ…ラ?」

        サリタは手を下ろし、震える唇でその名を呼んだ。

        「く…っ!」

        サリタの視線が自分から外れた隙にナズは無傷な左手で銃を拾い、サリタに向けて発砲した。

        ―ガァンッ!―

        弾はサリタの胸に当たった。
        ずるりと浮力を失った杖から身体が離れ、床に向かって真っ逆さまにサリタは落下する。

        「いやぁぁあっ!サリタぁぁぁあっ」

        金切り声でイザベラは叫んだ。
        少し遅れてリフトに上がった日乃菜とジュリアンは叫ぶイザベラの横を擦り抜け、ナズとリアンを拘束した。

        「お前等なんて事を…っ!」

        ジュリアンはナズの胸ぐらを掴み、乱暴に揺すった。



        ※※※※※※

        「お兄ちゃんっ!」

        銃声とイザベラの悲鳴のすぐ後、リフトの下で五月雨が顔を一気に青ざめさせて叫んだ。
        サリタが杖から落ちてくる。傍に居る雪風が床を蹴って駆け出した。疲労で思うように身体が動いてくれない。
        足がもつれて転びそうになる。

        頼む…

        間に合ってくれっ!


        ―ズシャアァッ!―


        雪風は頭から滑り込みサリタの身体を間一髪で抱き留めていた。
        リフトの上からサリタの落下地点を見ていたイザベラに手を上げて無事である事を伝える。

        「う…」

        腕の中でサリタが呻いた。雪風はサリタを楽な態勢にしてやり必死に名前を呼び掛ける。

        「サリタ君…!」

        何度も自分を呼ぶ声にサリタはゆっくりと目を開けた。霞む視界に映るのは、青い髪の青年と…美しい満月。
        …いつだったか…こんな満月の夜にこんなふうに名を呼ばれて起こされたのは…。

        サリタは夢に引きずり込まれるように静かに瞳を閉じた。



        ※※※※※※

        サリタは夢を見ていた。それは遠い昔の懐かしい故郷の夢…。

        「…タ…サリタ…」

        誰かが肩を掴んで揺り起こす…。

        「サリタっ!」

        「うわぁっ!」

        耳元で大声を出されてサリタは驚いて飛び起きた。
        目の前にはしかめっ面をしているサリタより少し年上の女性。長い夜色の髪が夜風に揺れている。

        「お前またこんな所で寝ていたのか!まったく…王宮付きの魔法使いとは思えんな。
        暖かいとはいえいくらなんでも風邪をひくぞ」

        強めの口調で言って立ち上がり、女性はサリタを見下ろした。
        石造りの堅牢且つ壮麗な城、その中庭の木にサリタは背を預けて座っていた。
        膝の上には読みかけで開いたままの本…いつのまにか眠っていたらしい。

        「すみません陛下」

        目の前の女性をそう呼んでサリタは申し訳なさそうに頭を下げた。

        「お前はまたそんな堅苦しい呼び方をして…名指しで良いと言ったであろう?」

        女性は腰に手を当ててふんと鼻を鳴らした。この国の王は年若い女性。サリタの目の前にいる彼女だった。

        「そういう訳には参りませんよ。僕は貴女に仕える魔法使い。貴女は僕の主なのですから…」

        サリタの言葉に女王は涼やかな声をあげて笑った。

        「くそまじめ」

        「一国の主の言葉とは思えませんね。とてもお美しいのにとんだお転婆さんだ…」

        サリタは立ち上がって服に付いた砂埃を払うとニッと笑って女王を見つめた。
        年が近いせいか主従関係にありながら二人はこんなふうに気やすい会話が出来る仲だった。

        「で?陛下は僕を捜していたのでは?あぁ、チェスの相手は御免ですよ。
        陛下は勝つまでやめないから寝不足になってしまいます」

        冗句のつもりで言った言葉に女王は少し目を伏せた。

        「何か僕、気に障る事言いました?」

        常とは違う女王の様子にサリタは戸惑った。
        いつもならばサリタが冗談を言うと笑ったり、色々と突っ込んできたりするのに今日はそれがない。
        お転婆な女王が今日は心なしかしおらしくも見える。

        「いや、すまない…チェスじゃなくてな…お前に話があるんだ。今日は月が綺麗だから散歩でもしよう。
        歩きながらのほうが話しやすい」

        「別に構いませんけど…」

        サリタと女王は小高い丘を並んで歩いた。女王はサリタと目線を合わせず黙々と草を踏みしめて歩く。

        「凄い月明かりだ…こういうのを『ライムライト』って言うんだよな…」

        女王は丘の頂上で立ち止まって月を見上げて伸びをした。横に並んだサリタも月を見上げる。
        とても明るい満月は何故かサリタを不安にさせた。
        話があると言っていたのに女王はさっきから何も言おうとしない…堪り兼ねてサリタは女王の前に立ち、
        その黒い瞳で女王を見つめた。

        「…話とは何ですか?」

        女王はしばし無言になった。
        サリタはそれ以上問わずに辛抱強く女王の言葉を待つ…風に乗って、白い木蓮の花びらが雪のように舞っている…

        「…パイオニア2への乗船の案内が届いた。お前も知っているだろう?惑星ラグオルへの移民計画を…」

        女王は重々しく口を開いた。
        『パイオニア計画』それは母星の衰えによって余儀なくされた大規模移民計画…パイオニア2は本格的な巨大宇宙船。
        無人探査機が見付けた惑星ラグオルへ移る為の移民船である。

        「話には聞いています。パイオニア1でラグオルへ移った人からの通信では緑豊かな安全な星だとか…
        案内が来たという事は民を乗船させるのですか?」

        サリタの言葉に女王は首を振った。慎重に言葉を選びながらゆっくりと話し出す。

        「…いや、今回はお前一人に行ってもらおうと思う。パイオニア3からは民や家臣達を乗船させるつもりだ…
        だからお前に先に行ってもらって星の状況をその目で見て知らせてほしいんだ」

        サリタは怪訝そうな顔をした。女王の言葉に嫌な予感を感じ、恐る恐る聞いてみる。

        「陛下は…?乗船なさらないのですか?」

        「………」

        女王は答える事も頷く事もしなかった。
        答えを言いたくないが否定もできないから黙るしかない…それは無言の肯定だった。

        「何故…です?」

        サリタは困惑した。
        移民は義務ではないが、この星の大多数の人々が新しい大地へと旅立つというのになぜ彼女は残ろうとするのか…。
        女王は丘の上から街を見下ろした。
        小さな明かりが星のように暗い大地に散りばめられている…あの明かりの一つ一つが民がこの国に生きている証…
        女王は振り向いてサリタに微笑んだ。

        「この星は病んでいる。井戸が枯れ、作物は育たず、お前が見付けてくれた金山からも
        …もう一握りの金も出ない…けど、私はこの国が大好きだ。
        この星を愛している…私は此処に残って国を最後まで見届ける。それが国王である私の仕事だ」

        「この国が好きなのは僕だって同じです!だからって何故残るなどと…民は移民させるのでしょう?」

        サリタは女王の肩を掴んで強く問う。
        女王は困った顔をして肩からサリタの手を優しく外し、両手で包み込むように握った。

        「この国全ての民が移る事はできないだろう…高齢の者、病に伏している者、
        この星と共にある事を望む者…そういう者達を残して行く事は出来ない。
        此処は私の国で…私は国王だからな。私を信じてついてきてくれた民をたとえ一人でも残して行くなんて私には無理だ」

        サリタは俯いた。女王は昔からこうだ…民を…国を心から愛し、彼らの為に全力をつくしていた。
        きっと、何を行っても乗船はしないだろう。…ならば。

        「ならば僕も此処に残ります。陛下のお側に居ります」

        縋るように手を握り返してサリタは女王を見つめた。

        「それは認めん。お前はラグオルに行くんだ」

        女王は短く言い放った。
        サリタは俯き肩を震わせる。ぽつりぽつりと雨粒のように涙が乾いた土を濡らした。

        「僕はもう陛下にとって必要の無い存在なのですね…」

        思えば今までの自分は国の…目の前にいる女王の為に在るようなものだった。
        傍で支える事が存在理由だった…だが女王は自分を拒んだ。
        もう自分に出来る事は何一つないのだろうか…サリタがそんな事を思っているとふいに視界が暗くなった。
        暖かな感触が頬に伝わり心臓の音が聞こえる。女王はサリタの頭を包み込むように抱き締めていた。

        「馬鹿だなお前は…そんな事あるわけなかろう?…逆だよ。お前の力を認めているからこそお前を行かせるんだよ」

        女王はサリタの髪をまるで子供にしてやるように撫でた。絹糸のような細い髪がさらさらと指の間を流れる。

        「…仰っている意味が解りません…っ」

        嗚咽を堪えながらサリタは女王の腕の中でぽつりと呟いた。

        「私はな…お前の力に幾度となく助けられたよ。魔法という奇跡の力にな…。
        お前が居なければこの国は栄えはしなかった。
        だからこそお前の力を私一人で縛ってしまってはいけないと思う…全ての人に希望を与えられるその力をな…」

        「僕は…僕はこんな力が欲しかった訳じゃない。こんな恐ろしい力…僕は要らなかった…」

        サリタは女王から身体を離して両手に顔を埋めた。この力の所為で幾度となく迫害され、裏切られた。
        自分もその度に力で人を傷つけてきた…こんな力さえなければと何度思った事だろう…。
        絶望の淵に居たサリタを救ったのが女王だった。だからこの力を彼女の為に使おうと思った。
        傷つけるのではなく、支える為に…。

        「お前の力は悪い物じゃない…それはお前がその力の恐ろしさを知っているからだ。
        だから人を傷つける為じゃなく、人を救う為の力になるのさ…」

        女王は長い髪を風に躍らせて微笑んだ。

        「救うための力?」

        サリタは顔を上げて聞き返した。目の前で微笑む美しい女王は自信たっぷりにサリタに言った。

        「そう、奇跡の力だ。だから行ってくれ…お前のその力を未来ある者…
        お前がこれから愛する者の為に使ってほしいんだよ…私にそうしてくれたように」

        サリタは変な顔になった。泣きたいような笑いたいような…此処を離れるのが悲しくて…力を認め、
        それを悪い物ではないと言われたのが嬉しくて…どう表現したらいいのか解らない。だが、これだけは言える…

        「陛下は狡いです…そんな風に言われたらラグオルに行くと応えるしかないじゃないですか…」

        女王の為に。
        今まで自分の力を必要としてくれて、そして今奇跡の力とまで言ってくれた彼女の為に…。
        そして未来ある者の為、愛する者の為に…。

        「解りました…僕は行きます。これからどんな人に出会えるのかは解りませんが…
        今は陛下の為に…陛下が望む道を行きます」

        サリタは決心が鈍らないうちに女王から目を逸らした。
        顔を見ればきっと自分は此処から離れるのが耐えられないくらい辛くなるから。

        「…乗船はいつになるのですか?」

        「…三日後だ」

        「そう…そんなに早いのですか…」

        お互い視線を合わせずにただぼんやりと月を眺める…。
        時間がやけにゆっくりと流れている気がする…このまま時が止まれば良いのに。

        「すまない…今の今までどうしても言い出せなかった…正直、私もお前が居ないこの国で
        やっていけるか不安だったんだ」

        自分で決めた事なのに…きっとその目を見たら引き止めてしまう。此処に居てくれと…。
        月明かりがこんなに明るいから泣いたりなんかしたらサリタに気付かれてしまう。だから女王は笑った。
        笑顔で送り出してやりたいから。

        「さようなら…サリタ。お前が切り開く未来を信じているよ」

        雪のように舞う白木蓮の花弁と蒼い月明かりの中の女王の微笑みは悲しく美しかった。



        ※※※※※※

        「………」

        サリタはゆっくりと目覚めた。まだぼやけている視界に映るのは見慣れた自分の部屋。

        「お兄ちゃん!」

        ベッドの傍にチビが居た。泣きながらサリタの胸に飛び込んでくる。

        「チビ?あれ…何で?」

        ぼんやりする頭で必死に思い出そうとするが、何がなんだか解らない。
        チビはサリタの上からぴょんと飛び退くと、ドアに向かって大声で叫んだ。

        「おねえちゃぁ―ん!お兄ちゃん目ぇ開けたよ―っ!」

        チビの声の後、階段を猛スピードで駆け上がってくる複数の足音…ドアが勢いよく開かれ、
        先頭で入ってきたのはイザベラだった。
        そのままサリタが寝ているベッドへダイブして、その胸を両手でぼかぼかと殴りながらイザベラは泣きだした。

        「馬鹿っ!この大馬鹿ぁ!もう…死んじゃうかと思ったんだからぁっ!」

        「痛っいたたっ!イザベラ痛い…!」

        サリタは痛みに顔を歪めた。
        イザベラの後に入ってきた日乃菜と雪風がサリタからイザベラをひっぺがして何とか落ち着かせてくれた。

        「君は五日も昏睡状態だったのですよ」

        雪風が心配そうにサリタの顔を覗きこみながら言った。サリタは雪風の顔を見て事の全てを思い出す。

        「雪風さん!研究所は?あのニューマン達は!?」

        ベッドからがばっと上体を起こしサリタは早口に聞いた。
        雪風はサリタの口に人差し指を押し当てて黙らせると短くため息をつく。

        「落ち着いて。まず研究所のニューマン達は全員政府に連行しました。
        研究内容の入ったデータや書類も全て押収済みです。
        まだ調べの段階なので、これから彼らがどうなるのかは解りませんが…あれだけの事をしたんですから
        それなりの罰は受けるでしょうね」

        雪風はサリタにゆっくりと説明してやった。

        「…五月雨君は?…緑の髪の男の子なのですが」

        サリタは不安気に聞いた。五月雨が撃たれてからの記憶はとてもおぼろげなものだったからだ。
        無事ならば良いのだが…。

        「彼なら大丈夫ですよ…お店の片付けを手伝ってくれていたんです。今上がってきますよ」

        話している雪風の後から階段を上がる二つの足音が聞こえてきた。
        足音はドアの前で止まり、小さなノックの後に入ってきたのはジュリアンと五月雨だった。

        「お兄ちゃん…」

        五月雨はとことこベッドの傍まで歩いて来てその元気な姿をサリタに見せた。

        「五月雨君!あぁ…良かった」

        ベッドから身を乗り出してサリタは五月雨を抱き締めた。
        生きている者の証である暖かな体温がサリタの腕に伝わる。

        「サリタ…お前達のおかげで弟は無事だった。本当に何と礼を言ったら良いか…」

        ジュリアンは五月雨の後から深々と頭を下げた。

        「お礼なんて…僕は何もできなかったのですから」

        サリタは眉を寄せて目を伏せた。五月雨が撃たれる時自分は何も出来なかった。
        無力な自分に腹が立ちサリタはぎゅっと拳を握り締める。

        「いや、お前の気持ちが私は嬉しかった。弟は私を守る為にお前を傷つけてしまったがお前は反撃しなかったのだろう?
        弟から聞いたよ。弟を守ってくれようとした…それだけで十分だよ。ありがとう」

        ジュリアンは笑ってサリタが頭に巻いている包帯にそっと手を触れた。

        「さ、帰るぞ五月雨。それではまたいずれ何処かで」

        ジュリアンと五月雨は軽く一礼して去っていった。後に残された四人は無言になり静かに沈黙が流れる。

        「…皆に話したい事がある」

        唐突にサリタが淡々とした声で話しだした。
        五月雨が撃たれた後のおぼろげだった記憶…断片的にしか覚えていないが
        自分が一番知られたくなかった本当の自分を見て悲鳴を上げるイザベラの顔ははっきりと心に焼き付いていた。

        「…僕は昔、とある宮廷に仕える古代魔法使いでした。皆見たと思うけれどテクニック以外の力を使えるんです
        …こんなふうに」

        サリタは小さく呪文を紡ぎサイドボードの上の水が入ったグラスを手に取った。
        中の水が震え、グラスの中の水が跳ねて重力に逆らいサリタの目の前で球体となって浮いた。
        全員が不思議そうな顔でその球体を見つめるのを見てサリタは水の球をグラスへと戻した。

        「…こういう事が出来るんです。皆が見たように人を傷つける事も出来る力です。
        …今まで黙っててすみません…恐かったんです。こんな力があることでまた自分の居場所を失う事が」

        サリタの頬を涙が伝った。嗚咽を洩らす事も涙を拭う事もせずサリタは泣いた。
        この力で愛する者を守れと言った女王…奇跡の力だといってくれたのに…やっぱりこれは恐ろしいだけの力だった…
        イザベラの悲鳴が耳に響く…きっと自分を恐ろしいと思っているだろう。
        自分は此処を離れなければいけないのかもしれない。皆が好きだからこそ…。

        「だから僕…」

        ここから先の言葉は言いたくなかった…女王が言っていた愛する者達を守る…それが自分には出来なかった。
        だから恐がられ拒絶される前に…

        「僕は此処を出ていきます」

        声が擦れる…静寂が部屋を支配する…やっと見付けた愛する者達がじっと自分を見つめている。
        サリタは耐えられなくなって目を逸らし自分の手を見つめた。

        「馬鹿言わないでよ…」

        イザベラが小さく呟いた。青空のような瞳からとめどなく涙が溢れる。

        「あんたの力は確かに恐い…私には理解できない。でも、サリタはサリタでしょう?
        初めて会った日からあんたはもう私の弟なのよ。生意気だし、朝は弱いし、方向音痴だし…
        魔法なんてわけわかんない力使えちゃったりするけど…大切な弟なのよ!
        あんたはお姉ちゃんを…日乃菜もチビも…雪風さんも捨てていくわけ?私達の気持ちはどうなるのよ!
        何で一人で悩むのよ」

        イザベラは一気にまくしたててサリタの首を抱いた。

        「…やっと見付けたんだから。あんたが居なくなって皆で探したんだから…魔法使いでも何でも
        サリタがサリタであるかぎり私達はあんたが好き…。あんたの代わりなんて誰も居ないんだからね!」

        涙声の優しい言葉…力の恐さを見てそれでも自分を受け入れてくれる人達…
        サリタはいつしかイザベラの背に腕を回して力一杯抱き締めていた。
        愛しさが自分にも押さえられないくらい溢れる…。

        「ありがとう…」

        言いたい事は山ほどあるが今はこの言葉だけできっと気持ちは通じる。
        後はこれから少しずつ…『大好き』という気持ちを全身で表していこう…。
        愛情をもらったその数倍、自分も皆を愛そう…サリタはとても穏やかに微笑んだ。



        ※※※※※※

        〔数ヵ月後〕

        サリタ、イザベラ、日乃菜、雪風の四人は森に来ていた。
        また巡ってきた満月期にチビを寝かし付けた後、皆で月見をしようとサリタがもちかけたのだ。
        セントラルドーム前、杯を酌み交わしながら四人は丸い月を見上げた。

        サリタは食い入るようにずっと月を見上げている…。

        「月が好きなのですか?」

        いつのまにか隣に雪風が来て話し掛けてきた。サリタの杯に透明な酒を注いで一緒に月を見上げる。

        「前は嫌いでした…見てると悲しくなるから…大切な人に別れをつげたのはこんな夜でしたからね。
        でも、今は嫌いじゃないです…見ているのが一人じゃないから…それにきっとこの月を僕の祖国の人も見てる。
        離れていてもこういう所で繋がっているんです」

        サリタは照れ笑いをして注がれた酒を一気に飲み干した。

        『愛する人達…守る人達が見つかりましたよ陛下…』

        心の中でこっそり思ってサリタは目を閉じた。
        満月の夜の切ない思い出が今夜はとても愛しく思えた…

             《終わり》


        *ノーチェのホスト「サリタ」こと「氷月 炯魔(ひつき けいま)」が発行するメルマガで
         配信された小説です。
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